塚本靑史の人名事典的経歴
塚本靑史(つかもと せいし 1949年4月9日 ~ )は、歴史小説家。岡山県倉敷市生まれ。父は歌人の塚本邦雄(1920年8月7日 - 2005年6月9日)。
邦雄が商社マン時代、倉敷に転勤となった。邦雄の叔父外村吉之介(とのむら・きちのすけ 1898年 - 1993年)が倉敷民藝館の館長をしていた関係で間借りしており、靑史はその敷地内で生を受ける。一ヵ月後、邦雄の転勤に伴い島根県松江市殿町へ転居。その地で幼少期の三年を過ごす。
1952年、更に東大阪市南鴻池町(当時は中河内郡盾津町)へ居を移し、靑史は幼稚園から社会人に至るまで河内平野で育つ。少年時代の靑史は、父のような書斎派の読書人ではなく、野球、魚釣り、昆虫採集が好きなアウトドア派で、あまり活字に親しむことはなかった。(本人の弁)
邦雄を訪ねてきた寺山修司(1935年12月10日 - 1983年5月4日)や福島泰樹(1943年3月25日 ~ )を駅まで迎えに行ったり、三島由紀夫(1925年1月14日 - 1970年11月25日)からの手紙をメイルボックスから取り出した青少年時代の経験が、後日文筆に目覚める遠い動機にもなっているらしい。
大阪府立清水谷高等学校では、バスケットボール部に所属。毎日、大阪城を一周するトレーニングがあったという。この頃、文芸部主催の高校文集に二度ばかりSFを投稿した記録がある。小説家としての、萌芽と見ることができよう。
同校の先輩に「怒りのヤマケン」こと山本健治(1943年12月12日 ~ /高槻市議会及び大阪府議会議員を経て、現在フリーライターとして、テレビのコメンテーターで活躍)、同学年には命の政治家と言われた山本孝史(民主党の国会議員
・1949年7月7日~2007年12月22日。靑史とは小学校の5、6年生&高等学校2年生時にクラスメイトであった )、一学年下に日本赤軍のメンバー・丸岡修(1973年のドバイ日航ハイジャック事件や1977年のダッカ日航ハイジャック事件を起こして1987年逮捕。無期懲役で宮城刑務所に服役中、2011年5月29日沒)、十余年下には俳優の豊川悦司(1962年3月18日~)や「全国おばちゃん党」代表代行の谷口真由(1975年3月6日~)らがいる。
同志社大学文学部時代は、美術部『創造』に所属。幹事長(部長)も経験した。同部には、村田製作所の現社長・村田恒夫(1951年8月13日~)がいた。
また、同人誌『ゐまあごを』(1971年の創刊から1981年の15號まで続く)に参加、絵画作品を発表しつづけ、後日イラストレーターになる基礎を作った。
当初、誌を制作していた双林プリントには、社長で詩人の山前實治(やまざき・さねはる/1908年 - 1978年:歌手倉木麻衣の祖父)や、H氏賞受賞者の大野新(おおの・しん/1928年 - 2010年)らがいた。ちなみに、その頃同所は京都の同人誌の八割程を受注していたと言われ、歌人の安森敏隆、永田和宏、河野裕子らの『幻想派』なども手がけていた。
1973年、同人の勝木雄二(1950年11月20日 ~ )と合同画集『雙關圖』(文童社:山前實治の個人出版社)を上梓。また、同人の三頭谷鷹史は美術評論家、間村俊一はブックデザイナーとして現在も活躍している。
大学卒業後、京都に本社を置く日本写真印刷(株)へ勤務する。1977年、東京支社へ異動となり、以後は千葉県に在住。勤務のかたわらイラストレーターとしても活動し、1978年と1981年の『年鑑日本のイラストレーション』(講談社)に作品が掲載されている。同人誌の終焉とともに小説を書き出して1989年、「小説推理新人賞」(双葉社主催)の最終候補となっている。
この間には、靑史のイラストレーターとしての活動はまだ休止されたわけではなく、大学時代からの友人寺田清秀(集英社月刊「プレイボーイ」副編集長(1950年11月24日 - 1998年7月22日)が主宰する同人誌『白梛』の表紙を描いている。そして1991年、候補作も含めたミステリ短編集『迫迫』にも八篇分の扉絵を配して花曜社から出版。靑史は、この一冊で小説家としてデビューした。
これは、1999年『水無月祓』&『業平の窓』二巻(扉のイラストも含め、それぞれに新作一篇とイラストが追加されている)の短編集として河出書房新社から発刊された。
これらと併行して中国史などに取材した歴史小説にも手を染め、1996年の『霍去病(上、下)』(河出書房新社)上梓で有名となる。その後二足の草鞋を履きながら、『白起』(河出書房新社)、『呂后』(講談社)を執筆する。
1999年3月、永年勤めた日本写真印刷(株)を退職。『項羽』(集英社)、『王莽』(講談社)などを執筆した後、2000年8月から五年間東大阪へ帰省する。父、邦雄が健康を損ねた(邦雄の妻慶子は、1998年9月8日死去)からだ。
父と同居しながら『マラトン』(幻冬社)、『張騫』(講談社)、『光武帝(上・中・下)』(講談社)、『裂果』(NHK出版~PHP文庫)、『呉越舷舷』(集英社)を執筆した。2005年6月9日、雄の死去(享年86)に伴い、千葉の自宅に戻って執筆活動を継続している。
他に著書は、『始皇帝』(毎日新聞社~講談社文庫)『春申君』(河出書房新社)
『煬帝 上&下』(日本経済新聞出版社)では、第一回 歴史時代作家クラブ賞「作品賞」を受賞している。
また、『安禄山』(角川書店)、『李世民 上&下』(日本経済新聞出版社)、『則天武后 上/下』(日本経済新聞出版社)、『バシレウス』(NHK出版)など著書は他にも多数ある。
「塚本靑史の著書目録」参照。
別に、2004~05年には、週刊『中国悠遊紀行』(小学館)へ50回にわたって「中国英傑伝」の連載を手がけた。
2006年からは毎年一度('12年、16年以降は複数回)『塚本靑史と行く中国歴史旅行』を募って、ファンと中国各地へ既に10度以上旅行している。2013年はヴェトナムとカンボジア。2018年にはウズベキスタンへ足を延ばしている。主催は<(株)タイムトラベル主催 担当:遠藤祐司 03-5659-0507>
2008年からは、PHP研究所の月刊『PHPほんとうの時代』に四字熟語のエッセイを執筆し24回の連載も終了。『四字熟語で愉しむ中国史』(PHP新書)として刊行した。
2009年1月末、邦雄の遺品(蔵書、直筆原稿、愛用品、書簡の類)を整理して日本現代詩歌文学館へ寄贈している。
2012年4月 平成23年度 日本作家クラブ随筆賞受賞。『いすくはし』(随筆手帖49)
2012年6月 第一回歴史時代作家クラブ作品賞受賞。『煬帝』(日本経済新聞出版社。
また、2012年8月20日から2013年8月9日まで、『日経ビジネスオンライン』にて『サテライト三国志群像』を、日刊で一年間連載(基本・週5回x50週 )をした。これは2014年、『サテライト三国志』として単行本化され、第2回野村胡堂文学賞を受賞している。
『短歌往来』(ながらみ書房)や『短歌研究』(短歌研究社)には、エッセイを連載し、2015年『靑一髪』、2017年『肖てはるかなれ』としてそれぞれの出版社から上梓されてた。
後者は、2014年12月に出版された『わが父塚本雄』(白水社)とともに、塚本雄研究の一冊とされる。
2017年1月からは月刊「潮」に『玄宗皇帝』を二年間連載し、2019年5月単行本化されている。他に月刊「現代短歌」に『画架(イーゼル)に短筒(モーゼル)』を2017年から開始し、2019年も連載中。
現在、歴史時代作家クラブ代表幹事、(一社)日本作家クラブの副理事長及び野村胡堂文学賞の実行委員長を務めている。また、『塚本邦雄』の名は商標登録されて、靑史はその商標権者となっている。重ねて、塚本邦雄の只一人の著作権継承者でもあることから、塚本邦雄創刊歌誌「玲瓏」の発行人も兼務して、短歌結社の活動を手助けしている。『玲瓏』は2019年中に100號を数える。