monkey magic
キー兄が唇を尖らせて怒ったとき、隣で苦笑しながら背中を叩いたのは、僕ではなかった。
キー兄が嬉しくて、感動して泣いたとき、隣で一緒に大粒の涙を流したのは、僕ではなかった。
キー兄が悲しくて、つらくて泣いたとき、隣で静かに肩を貸したのは、僕ではなかった。
僕は。
レッスンを終えて、いまにも崩れ落ちそうな足をどうにか前に動かす。帰り際、マネージャーに買ってもらった栄養ドリンクの入ったコンビニの袋が膝に何度もあたり、思わず舌打ちしてしまう。腕時計を見れば日付をちょうど回ったところで、明日のスタジオの入り時間を思い出してすこし憂鬱になる。嬉しい悲鳴、だなんて言えるほど、自分はまだ成長できていない。今日のレッスンで上手く踊れなかった部分を思い出して小さく溜め息をつく。自分の思うように、好きなように踊れない苦しさ、もどかしさ。街灯の光の奥から聞こえる歓声と、足先から続く真っ暗な道。
なんとなく気分が落ちてしまうのは、今日が新月だからだろうか。こんな日はさっさと熱いシャワーを浴びて、お気に入りのいちご牛乳を飲んで、なにもせずベッドに倒れたい。逸る気持ちとは裏腹に、階段を上がる足取りは重い。宿舎前の厳重なセキュリティを抜け、どうにかエレベーターに乗り込む。足元から抜け落ちるような、浮遊する感覚。重い目を閉じて天を仰ぐと、まるでこのまま天井を突き抜けて空に放り出されてしまうのではないか、なんて、取り留めもない妄想で頭がいっぱいになる。上に、上に―――。
―――永遠とも思えた数秒。チン、という無機質な軽い音が、遠くに飛んでいた意識を引き戻す。鉄の扉が開けば、いつもの見慣れた廊下が続く。灰色のコンクリートにスニーカーの白が鈍く光り、地面を踏む感覚が戻ってくる。
宿舎の扉に鍵を差し込むと、鍵が空回りする感触がした。個人の活動が増えたいま、宿舎に帰るタイミングは五人ともバラバラで、玄関扉にはいつも鍵がかかっている。不審に思いながらそっとノブを回して中を覗くと、薄暗い廊下にうっすらリビングの明かりが漏れていた。誰かいる。兄たちの誰かが待っている。思いがけず感じた人のぬくもりに、自然と口角が上がった。
「おかえりぃ」
足音を立てずゆっくりとリビングを覗くと、鼻にかかったような癖のある声が応えた。声の聞こえた方に顔を向けると、大きな黒い革張りのソファに深くもたれかかるキー兄がいた。薄暗いリビングの間接照明に照らされ、ほんのりと頬を上気させたキー兄は、僕の方を見ずにグラスを掲げる。ソファ横のテーブルにはウィスキーの瓶と氷の入ったバケツが置かれ、リビングはアルコールの生温い匂いが充満している。酒好きの兄たちから時折薫るこの匂いは嫌いじゃない。キー兄がグラスを口に運ぶと、すこし前にゆるくパーマをかけた髪がふわりと揺れた。
「ただいま。キー兄だけ? 」
「うん。ジョンヒョニ兄はラジオだし、オニュ兄とミノヤは撮影が押してるんだって」
なんでもないことのように、キー兄はさらりと言う。そういえば、そんなことをマネージャーも言っていたような。ふうん、とさして気にも留めずにキッチンへと向かい、冷蔵庫を開ける。目当ての牛乳(朝の飲みかけがあった、たぶんミノ兄がしまってくれたんだろう)を掴むと、中段に朝はなかった野菜炒めとキムチチゲが置いてあることに気づく。一人分には多く、二人分には少ないその量。
ふいに、目の前で酒を飲む兄だけが、今日は夕方からオフだったことを思い出した。ねえ、こんなに薄暗い部屋に、ずっとひとりで居たというの。誰もいない宿舎に帰り、誰がいつ食べるかもわからない夕食を作るキー兄を想像して、何故だか無性に腹が立った。そんな気持ちをぶつけるように冷蔵庫の扉を勢いよく閉じてしまう。手に持った牛乳が大きく波打つ。
そんな僕の気も知らずに、キー兄は僕を一瞥すると、アルコールのせいでいつもより赤くなった唇をにやりと歪めた。
「ねえおまえ、付き合ってよ」
「ええ」
我ながら思いがけず嫌そうな声が出てしまい、静かに焦る。キー兄の誘いにこんな返しをしたら、へそを曲げてねちねちと小言を言われるのが関の山だ。やってしまった、とそろりとキー兄を見やると、存外気にしていないようにグラスを傾けていた。
「・・・なにかあった? 」 ふいに感じた違和は、たぶん気のせいなんかじゃない。
「・・・なにも?なんで? 」
「なんとなく。いつもみたいに言い返してこないし、なんか、寂しそうだから」
はぐらかすキー兄の態度にすこし苛つき、投げつけるように言い放つと、キー兄は小さな目を見開いて僕を見つめた。近頃のカラーコンタクトを着けた瞳に慣れてしまったのだろうか。蜜をかけた黒豆みたいに黒々とした兄の瞳が珍しくて、ついジッと見つめ返してしまう。お互いに声を出さず、カチカチという壁の時計の音だけが薄暗いリビングに響く。
沈黙を破ったのはキー兄の溜め息だった。キー兄は白く長い首を仰け反らせ、こういうところばっかり似ちゃうんだから、と小さく呟くと、顔を隠すように手の甲を額にあてた。誰に似たというのかは、この際突っ込まない方がいいのだろう。
「そういう役はジョンヒョニ兄でいいじゃない」
「ええ、ジョンヒョナかあ」
ジョンヒョナはお酒弱いしすぐお説教するからぁ、と悪態をつく。キー兄、口元がにやけてるよ。あとジョンヒョナって呼んでるよ。宿舎からほど遠く離れたスタジオで夜を紡ぐ兄の、照れたような崩れた笑顔が思い浮かぶ。
キー兄は僕の手から牛乳を奪うと、飲み干して氷だけになった自分のグラスに音もなく牛乳を注いだ。僕はなにも言わずにグラスが白く満ちていくのを眺める。ほら、と差し出されたグラスに汗がつたう。
「いまはおまえがいいんだ」
グラスを受け取る右手が震えたのは、僕自身の震えだろうか。それとも。
キー兄のたわいもない話を適当に受け流しながら、ちびちびと牛乳を飲む。あれから三十分、核心をつく言葉は未だ出てこないので、ほんとうにただ話し相手(というより聞く相手)が欲しかっただけなのかもしれない。程よく酔っ払いご機嫌な兄の、僕相手には滅多にしない”愛嬌”をへらへらとあしらいながらつまみのナッツに手を伸ばすと、振り上げた腕がテーブルにあたってナッツが音を立てて床に散らばった。
「ああっ。もう、だから気をつけろっていつも言ってるじゃん」
キー兄は僕に小言をよく言う。何度注意されても牛乳や食器を片付けない僕が悪いのだが、キー兄だって服を散らかしたままにするので人のことは言えないと思う。そもそも僕はいまキー兄に付き合ってあげているというのに。唇を尖らせたキー兄を尻目につらつらと頭の中に文句は出てくるものの、ごめんごめん、と謝りながらナッツを両手で一粒ひと粒拾っては口に運ぶ。
「やだぁ、サルみたい」
そんな僕の姿を見たキー兄の呆れた声に悪戯心が沸いた。床にしゃがみ込んだまま振り返り、両耳を横に引っ張って鼻の下をめいっぱい伸ばして下唇を突き出して、昔友達の前でよくやっていたサルの真似を返す。ぱちぱちと目を瞬かせながらキー兄を見つめると、眉を八の字にして小さな口をめいっぱい広げて笑った。大きく仰け反って両手で口を覆うのはキー兄の癖だ。
あんまりけらけらと笑うものだから、楽しくなって続けざまにキリンやナマケモノの真似をしてリビングを歩き回る。控室などでもよくやっている遊びなのに、まるで初めて見たかのようにキー兄は涙を流して笑う。ふざけたのは自分なのに、なんだか可笑しくてつられて笑ってしまう。車のクラクションひとつ聞こえない夜更けに、二人分の笑い声が誰もいない宿舎に響く。
「ほんと、テミナが笑うと、こっちも笑っちゃう」 涙を拭いながらキー兄が笑う。
「そんなにおかしい?」
「うーん、嬉しい・・・かな」
「キー兄は、僕が笑うと嬉しいの?」
「そうだよ。僕だけじゃないよ」
みんなおまえの笑顔が好きだよ。
続いた言葉に跳ねるように視線をあげると、キー兄は涼やかな目をとろりと細めて優しく微笑んでいた。
「やっと笑ったね」
正直、してやられたと思った。
なにかを抱えた兄に付き合っているつもりだった。話を聞いてあげて慰めていると思っていた。頼られている気になっていた―――他の兄たちのように。
悔しい。悔しいけれど、唇を噛み締めるのは悔しいからじゃない。
崩れそうな顔を見られたくなくて俯いたままの僕の頭に、やんわりと温かい感触がした。さらさらと髪を撫でられる感覚に鼻の奥がつんとする。それらを振り払うように頭を振って、勢いよく顔をあげる。
「えへへ」
僕は笑った。
キー兄も眉尻を下げてはにかんだ。さっきの大笑いとはちがう、花がほころぶようなその笑顔を、ただ綺麗だと思った。
僕らはたぶん、どちらのことも頼れない。キー兄は僕を頼れないし、僕もキー兄を頼れない。他の兄たちとはちがう。
互いに肩も貸せなければ手も絡められない。涙も流せない。それでも、傍で笑ってほしいと思う。
それならば、そのままの、いつもの僕でキー兄の前に立とう。
キー兄がうまく笑えないときは、隣で僕が笑おう。僕の笑顔が好きだという兄のために、僕の好きな兄の笑顔のために、僕は笑おう。誰かのために何かをするのは苦手なのに、不思議とつらくはない。
微笑む兄の肩越しに窓の外を見ると、細く細く三日月が輝いているのが見えた。
ああ、今日は新月ではなかったのだ。