海に行きたい
ぼくは海に行きたい。
ある日、外から帰ってきて手を洗っている間にそう思った。
手が水についてるかんじが気持ちよかった。
冷たくて、温かい、やわらかい水の感触。
その中に入っていたいと、ぼくは思った。
何で海なのかは分からなかった。
でも、ぼくが包まれたいのは、きっと池でも泉でも湖でもない。
海の底に漂う、薄い塩のにおいが懐かしい。
少し強い水の圧力に耐えながら、その中を揺らいでいたい。
その夜、ぼくはそんなことばかり考えて、すぐに眠ることができなかった。
次の日は、晴れだった。
そして、今日、海へ向かおうと思っている。
日差しが気持ちよかったし、何より、早く、あの中に入りたい。
ぼくの家から海までは少し遠くて、歩き続けても五日はかかる。
休憩したり、途中で寝たら、十日以上にはなるだろう。
ぼくは海に行くための準備を始めた。
袋に食料を入れてみたが、十日分も持てそうになかった。
水が一番大切だけど、一番重かったから、その分持てる食料はまた減った。
でも、水さえあれば、一ヶ月は生きていられるらしい、とどこかで聞いたことがあったから、大丈夫だろうと思った。
海に行くまでは危険なこともあるらしかった。
この家を出た後、帰ってこれるかは分からない。
でもぼくはどうしても、行かなければいけない気がしてならなかった。
ぼくは袋に持てるだけの水と食料、そして少しの薬とタオルを一枚入れて、家の中の全ての部屋を見渡したあと、お母さんの写真と、家にさよならを言って、玄関を出た。
外にはここ以外に家はなく、ただ緑だけが、どこまでも続いている。
ぼくは後ろを振り向くことなく、その中へ。
海へ向かって出発した。
一日目。
足取りは軽かった。
木の横を通り、いろんな草を踏みしめ、淡々と歩いた。
途中、木陰に座って、持ってきたものを少し食べた。
ぼくは、太陽をだけを頼りに西に向かった。
夕方になり、夜になるまで歩き続けた。
一日目は、何の問題もなくすんなりと終わった。
二日目。
寝ていた木陰はもうすっかり逆方向に出来ていて、それが出発の合図でもあった。
太陽は昨日よりも強く輝き、昨日よりもぼくを疲れさせた。
木がまばらに生える草原を歩いていくと、緩やかな上り坂になった。
丘にさしかかったらしい。
木がどんどん増えてきて、見通しが悪くなってきた。
登り坂の中腹まで来て、赤い空を確認すると、それからその日は、そこで夜を過ごした。
三日目。
そろそろ、町を見つけなくてはならなかった。
ぼくはいつものペースを乱さないようにしつつ、少し、急ぐようにした。
昼にはなんとかてっぺんに着き、しばらくそこから辺りを見回した。
ずっと遠くに、かすかに町らしきものが見える気がする。
その手前には、大きな森が広がっていた。
その中で迷わないかが心配だった。
でもきっと大丈夫。
ぼくにはお母さんがついてる。
夜になって、その方向が明るく浮かぶと、それが町だという確信が得られた。
その日は、少し落ち着いて眠ることができた。
四日目。
雨が降った。
側にあった木の下で止むのを待ったが、一向にそんな気配を見せなかった。
雨は静かに振り続け、町に行く途中の森も、近くにあるはずなのにかすんで見えた。
その日はその木の下で食事をとった。
午後になっても雨は止まなかった。
ぼくはタオルを頭に乗せながら、木に寄りかかって、ずっと空を眺めていた。
黒々しい雲が、空一面に広がって、太陽の光と、ぼくの旅を遮っていた。
夜になっても、何も変わらなかった。
ぼくは風邪を引かないように木の根元で丸くなり、静かにまぶたを閉じた。
五日目。
朝になっても、雨はまだ元気でいた。
寝ている間にだいぶ服がぬれてしまったようだ。
体が震えていて、少しぼんやりした。
寒くならないようにタオルをしっかりと体に巻きつけ、出来るだけ身を小さくした。
昼食も早めにとった。
少ない水で、持ってきた薬を飲み込むと、ぼくは少し眠くなり、まだ昼間なのに、同じ木の下で眠ってしまった。
目が覚めたのは、その日の夜だった。
空にはもう黒い雲はなく、たくさんの星が見えた。
ぼくはその白や青に輝く星の姿をしばらく眺めてから、もう一度眠りについた。
六日目。
空はちゃんと青い色をしていて、その中に光る太陽を見ることができた。
ぼくは大急ぎで丘を下り、森へ向かった。
食べるものはもう尽きていた。
寒いはずなのに暑くて、頭が心臓になったみたいに響いた。
ぼくは死に物狂いで森を抜けようとした。
途中で倒れたら、終わりだ。
何度も転びそうになり、目の前が暗くなりながらも、必死でこの森を駆け抜けた。
気がつくと、目の前には草原が広がっていて、少し先に、町みたいなものが見えた。
それからのことは、よく分からない。
どれくらい日が過ぎただろう。
どれくらいの時間が経ったのだろう。
ぼくは、久しぶりに、ふわふわのベッドの上で目を覚ました。
横を見てみると、白い服を着た人が立っていた。
その人は、ぼくに大丈夫かと言って、ぼくのおでこに手を当てたりした。
ぼくが小さくうなずくと、今度はどこから来たんだと聞くから、ブラーウェの北から来ましたと言ったら、その人はすごく驚いていた。
それからその人はおかゆを持ってきてくれた。
そして、しばらくここで寝ているようにとぼくに言い、帰っていった。
ぼくはゆっくりそれを食べた後、今度はいつ寝られるか分からない白いベッドに、また横たわった。
ここは、ぼくの住んでるところから西に行ったところにある、グレンチェという小さな町だった。
ぼくは町の入り口で倒れていて、見つけてくれた人達が、病院まで連れてきてくれたらしい。
ちゃんと西に来れてた。
熱はだいぶ良くなった。
だるい感じもないし、なんだかスッキリした気分だ。
お腹も、さっきのおかゆのお陰で温まった。
ぼくは、はやる気持ちを抑えて、もう少しここにお世話になることにした。
入院費は、今持っている分ではとても足りなかったので、後払いにして下さいとお願いしようと思ったけど、それをお医者さんに言ったら、元気になったら仕事の手伝いを、少ししてくれるだけでいいって言ってくれた。
ぼくはしばらく休んで、お手伝いをしてから、病院を後にした。
ずいぶん時間をかけてしまった。
ぼくはこの町で食べ物の用意を済ませると、静かに町を去った。
ぼくにとって、これが第二の出発みたいだった。
気を取り直して、ぼくは西の海を目指して歩き出した。
久しぶりに出た外は、いつもより暑くて、すぐ疲れてしまいそうになったが、木陰も多かったので、休みながらゆっくりいくことにした。
ぼくはそれから、何日も歩いた。
ちょうど五日くらいたったとき、ぼくの鼻が、かすかに塩のにおいを感じた。
ぼくはハッとして走り出した。
するとそこには、見たこともない、果てしなく続く、青い水…。
海があった。
ぼくは声を上げて、荷物を放り出し、海へ駆け寄った。
靴を飛ばして裸足になり、海に入った。
手で触った。
少しトロッとしていて、舐めたらしょっぱかった。
ぼくは服を脱いで、海に入っていった。
首まで浸かり、それから、頭までもぐった。
ぼくの想像とは違い、海の中では息ができなかった。
しばらく海の上で浮かんだり、水を跳ねさせて遊んでるうちに、夕方になった。
空がオレンジ色になり、海もまた、同じ色になった。
ぼくはびっくりして、海は、時間が変わると色も変わるんだ、と思った。
海に浸かりながら、ずっと夕日を眺めていた。
ぼくはもう、きっと、家には戻らないと思った。
ここが、ぼくの求めていた海。
すごく来たかった。
ずっと浸かっていたかった。
この海が、ぼく全体を包んでくれた。
陸に戻る理由なんて、何もなかった。
ぼくは海の、もっと深い方へ歩いていった。
足が浸かり、腰まで届き、胸まできて、とうとう足が届かなくなり、頭まで海の中に入ってしまった。
最初は苦しかったけど、今はそう思わない。
ぼくは海の中で息をし、海に体を任せた。
ぼくは目を開いた。
そこには、今まで見たこともないような美しい光景があった。
色とりどりの魚が、美しい深い青をバックに泳ぎ、海底には色鮮やかな珊瑚や貝、ずっと先まで見える青、銀の泡が光って上っていく様子。
ぼくはもう、何もかもに満足していた。
とても幸せな気分だった。
自然と涙が溢れ、海の水に溶けていった。
思い残すことは何もなった。
ぼくは目を閉じた。
水が動く音が、懐かしい声に聞こえる。
昔、何かの本で読んだことがある。
海は生命の始まり。
最初の命は海から生まれ、そして、色々なものに進化していった、って。
ぼくは今、海から生まれたことを思い、そして海へ帰っていく。
お母さん。
自分がなぜあんなに海に来たがってたのか、今、やっと分かったような気がした。
優しく抱かれながら、ぼくは、海になった。
2001/04/29
2008/02/05改定