Lost HEAVEN 〜禁断の果実〜
鳥が鳴いたから鳴き返してみた。返事はなかったけど、なんだか満たされた気分だった。森の中では、いろんなところからザワザワと音が聞こえるから、自分以外にも生き物がいるんだと思えて元気になる。
好きで、小さい頃から住んでいる。
ある日気付いた、この森がぼくの居場所なんだって。この森に初めて足を踏み入れたとき、全てのものが、ぼくを歓迎してくれているように思えた。そこは、あらゆるものを受け入れてくれる、生命の泉のようなところで、ぼくは見ただけで、そこに溶けていってしまったのだ。
以来、葉や木々の力を借りて、家を作り、食料を手に入れたりしながら、ここで長年生活している。ここはぼくにとって天国とも、楽園とも言える場所なのだ。
遠い昔、一緒にここまで来てくれた両親に頼み込んで、自分だけ、ここに、家とは遠く離れたこの森に、残してもらったのだ、というと聞こえがいい。本当は、ここに残りたいというぼくの希望を両親が渋ったので、ぼくは無理やり、両親の手の届かないところへ逃げ出してしまったのだ。姿の見えない木の上に身を隠し、ぼくを探し回る両親を上から見ながら、もう帰らないから、ぼく、ここに住むから、と叫び、日が落ちると、両親の前から姿をくらませてしまったのだった。完璧な家出である。
それから両親がどうなったのかは分からないが、散々探し回った後、ちゃんと家に帰っていったんだろうとは思う。そしてぼくはこの森を家とし、新しく、住む場所をくれる土のお父さんと、その実で食事をさせてくれる、木のお母さんを持ったのだ。
森での生活は、最初は大変なところもあった。家を作らなくてはならないし、しかもその場所は川から近くなくてはならない。どの木から食べれる実がなるか、どの草がどんなケガに効くかも、森のことは全く分からなかったからだ。時には川が増水して家が飲み込まれそうになったこともあった。でも、生活すれば生活するほど、この森全体がぼくの庭のように思えてきて、降りかかるどんな事態にもちゃんと対処できるようになっていった。
もうここには暮らし始めて10年にはなる。どの木の実が、どんな味になるかも分かってきた。危険な生き物が通る場所も、森の地形も、川の流れ方も、魚の住処も。
もうここは、ぼくの家だ。そして、全ての生物たちがぼくの家族だ。
ある日、いつものように食事をしようと木の実を探しに行ったとき、見慣れない一本の木を発見した。その木は大きくて、とてもおいしそうな実を豊かにつけて、やさしくこの森を見晴らすかのように、広く、高く立っていた。ぼくは慣れたように木に登り、その中からひとつの実を採った。初めて見る実だった。10年のうちでは発見したことがない種類で、こんな木があったのかと少し驚いた。森の事は知っているつもりだったけれど、まだまだぼくの見たことのない広さで、森は存在しているらしい。
実からはとてもいい匂いがした。割ってみると、その香りはさらに濃くなった。初めて見る食べ物には、慎重に手を出さなければならないのが、森で生きるものの鉄則だが、ぼくはあまりのいい香りに、その実をぱくりと口に入れてしまった。すぐに、しまった、と思ったが、その味が口中に広がったとき、その不安はかき消された。
おいしい。
おいしい!
なんだろうこの木の実は。今まで食べてきた中でも比べ物にならないほど濃く、懐かしい味がする。
懐かしい味、ふと、お母さんの作ってくれた無花果のはちみつ漬けの味を思い出した。
ぼくはたまらず、もうひとつもぎ取って食べた。今度は別の味がする。でもとてもおいしい。少しすっぱく、そしていつまでもその味が残る。
お母さんの作ってくれた、イチゴムースを思い出す。
ぼくはもうひとつもぎ取って食べた。今度は少ししょっぱい。
そしていくらでも食べられそうな、お母さんのじゃが芋の煮っころがしを思い出す。
もうひとつ食べた。そしてもうひとつ、もうひとつ…。
一体なんだろうこの木は、全ての実の味が異なり、そして全ての味が、懐かしい、お母さんの手料理の味と重なる。いくらでも食べられる、薄口の味付けのお母さんの料理。何なんだこの木は。もう十年も前になるお母さんの味を思い出させるこの味は。
ぼくはたまらず何個も手に取った。何個も何個も腕に抱えて、そして、木から降りた。
この木の実は、すごく不思議だが、そんなことはどうでもよかった。それ以上に、この味をもう一度味わえたことが、何故だかこの上なく嬉しかった。一度捨てたこの味を、もう一度手に入れられたことが、とてつもなく嬉しかったのだ。
ふと、下を見ると、何か、きらりと光るものが目に入った。手いっぱいに抱えた果実の上から覗き込むように足元を見ると、木の根元に、ひとつ、きれいな指輪が落ちているのが見えた。
ぼくはしばらくして、腕に抱えていた、全ての実を落とした。
それは、ぼくのお母さんの結婚指輪と、全く同じものだった。
お父さんとお母さんは家に帰ったんじゃなかったのか?
ぼくは後ずさり、一点にその指輪を見つめた。
ふと地面に目をやると、もうひとつ、土の上に光るものが見えた。ぼくは、しばらく動けずにいたが、はっとして、それを荒々しく拾った。
間違いなく、それはお父さんの指にいつもはまっていた、結婚指輪だった。
ぼくは分かった。なぜ、この木の果実は、お母さんの料理の味がするのか。
お父さんとお母さんは、帰っていはいなかったのだ。ぼくが姿をくらませた後、お父さんとお母さんは、真っ暗なこの森の中を、ぼくを探して歩き廻り、そして迷って帰れなくなったのだ。そしてついにお母さんはこの木のふもとで、お父さんはこの土の上で、息絶えたのではないか。
それからずっと、お父さんはここでぼくの生活する土地を守り、お母さんはここでぼくにご飯を作り続けてくれていたのだ。ぼくがここで生活し始めてから、ぼくは文字通り、土のお父さんと、木のお母さんを手に入れてしまったのだ。
ぼくは二つの指輪を握りながら、この森の中では感じたことのないような孤独感に襲われ、自分が今、この森の住人ではないことを悟ったのだった。
次の日、森は全て変わっていた。何の生き物の声すら聞こえず、風は吹かず、生命の物音ひとつしなかった。聞こえるのは遠くから聞こえる機械音のみ。この森は、なくなるのだ。
ぼくはそれから数日、森の中に作った自分の家に閉じこもっていたが、周りの木々が切られる順番が近くなったので逃げ出した。森を出てみると、そこはもう元の森の姿ではなく、切り株だらけの荒地が、ただひたすら広がっていた。
ぼくは小さいころの記憶を頼りに家まで帰ろうとした。昔、お父さんとお母さんと暮らしていた家に。切り株だらけで見晴らしのよくなった今、ここから町を目指すことは、簡単なことだった。日が落ちるころには、町にたどり着いた。だが、どんなに探しても、記憶の場所は見つからない。丸一日歩いて、やっと、見覚えのあるところにたどり着いた。そこから家までの道は、まだ覚えていた。ぼくは最後の十字路を曲がり、目には昔の家が浮かんだ。
だが、そこには何もなかった。ぼくの昔の家は、もうなかった。確実にここだと思える場所には、空き地が広がっているほかなかった。僕のふたつの家は、両方なくなってしまったのだ。
周りのどんなものにも生の鼓動を感じられず、ぼくはただただ、外の世界に飲まれていくしかできなかった。
手には指輪がふたつ握られている。
ぼくは今、完全にひとりだった。
2007/10/08
2010/05/02改訂