1994. France, Spain
Director : Julio Medem







「Hedonism」=快楽主義

哲学者エピロクスが説いた「人生の目的は快楽であり、快楽こそが最高の善である」という考え方。

快楽とは幸福であり、幸福とは心の平静である。快楽は、肉体的に苦しみのないことであり、魂において乱されないことである。幸福主義の一種。


「ルシアとSEX」を観た(3回くらい)。

この作品同様にセックスがつくタイトルの映画がいくつかある。

「ウディ・アレンの誰もが知りたがっているくせにちょっと聞きにくいSEXのすべてについて教えましょう(1981)」「セックスと嘘とビデオテープ(1989)」「セックス・アンド・ザ・シティ(2008)」、邦画だと「プラトニック・セックス(2001)」「人のセックスを笑うな(2008)」など。


「セックス」という言葉を聞いてどんな風に捉えるだろう。

なぜか「セックス」という言葉を取り巻くあらゆるものが人を魅惑する。

人を魅惑する「セックス」って何?


こと生物的な種族競争の観点で話すとセックスとは子孫を残す為の行為でしかない。


ヒトは生物的に弱者だ。

獣を殺す爪もなければ牙もない。他の生物を追いかけるほどの速力もなければ、天敵から身を守る毒も擬態も使えない。

他の生物より弱いから安全に子孫を残せるように生物から守られた社会を形成し、オスとメスが繁殖を続け、種族競争に成功しているかもしれない。

このことからすると、人間同士の「好き」という感情は、生物の種族競争に勝ち残る為の人間の錯覚にすぎない(「好き」の行き着く先がセックスであるならば)。

「愛している」という言葉も、全ては子孫を残す為の仕組まれた錯覚でしかない。


だから改めて言わせてもらうとセックスは子孫を残す行為でしかない。

それ以外の何物でもないのだ。



しかしながら、人は「セックス」に魅了され、魅惑され、踊らされる。

(人間が愚かだからだろうか)

非常にデリケートでプライベートな領域なのに(であるからなのか?)、人は皆、無条件で好奇心を抱く。

それは覗き見の感覚に近しいかもしれないし、秘密の共有(浮気ではなく)にゾクゾクするのかもしれない。

自分が安全地帯にいるからなのかもしれない。

好奇心を露わにするしないに関わらず、必ず皆抱いていると言ってもいい。


そんなにみんなが好奇心抱いていて魅了されているなら、もっと出生率が上がってもいいじゃないか!どう何だ!と、野次が聞こえてきそうなのは置いといて。


で、セックスって何なの?って話ですが・・・

日本ではセックスのことをそのままセックスと言ったり、エッチと言ったりする。

外国では「make love」という(らしい)。「fuck」ともいうだろうが、普通に「sex」ともいうし、その他にも(調べると)色々ある。

「make love」を直訳すると「愛を作る」だが「愛を育む」と捉えることもできる。


「愛を育む」


これは人間の原点とも言えるのでは。


ということは、


「make love」=「愛を育む」・・・①

「愛を育む」= 人間の原点 ・・・②


「make love」はセックスであるから、①,②より


  セックス = 人間の原点 ・・・③


が成り立つ。

とまあ、くだらない冗談はさておき、先に快楽主義のことを簡単に説明したが、快楽主義的にいうと愛は善である。(というと、善じゃない!悪だ!悪に決まってる!という野次が聞こえてきそうだが・・・)

 


戻って「ルシアとSEX」は快楽主義的な作品である。

愛を肉体的なセックスとして官能的に表現している作品でもある。


一見するとただのセックス映画だが、複雑な内容と幻想的な映像が織りなす世界観は

名作の呼び名を確実のものとする。

そして、色彩感覚。スペインにはペドロ・アルモドバルだけではないのだ。


スペインの女優エレナ・アナヤの肉体美から溢れる肉々しい性描写も

パス・ベガとトリスタン・ウヨアの情熱的な絡みも

単なる定型化された愛ではなく、そこに善が描かれてる。


音楽が巧みに(悪く言うとあざとく)使われていて(見返すとそうでもなかった)、叙情的であるし、綺麗な映像からは風や水、そして人の肌が感じられる。


上手いな、と思ったのは、この映画は「全く映画を観ない・知らない男性」が見ても「エロビデオ」としても活用できるだろうし(もしかしたら女性も)、「愛物語に弱いのわたし的なセンチメンタルな女の子」の精神を満たすひと時を提供できるだろうし、「映画を追い求める人」も「脚本や構成を学ぶ人」にも役に立つだろう。


何が言いたいかというと一つの映画が様々なジャンルの顔を持っているということ。


映画を作る上で、趣味で作るわけでないので、当然ながら誰に売るかどんな展開をしていくかなどを考えて作らなくちゃいけない。

そういう意味で上手いと思う。


それと「ルシア」ラテン語のルキアが語源のスペイン語で、「光」を意味する。

このことを念頭においてラストカットを観ると計算されているなあと思う。

エンドロールも構成のコンセプトに合っていて、この作品の感覚がアートなのが分かる。

(ちなみにミシェル・フランコの「父の秘密」も原題には"Despues de Lucia"とルシア(光)が使われている。この作品では母ルシアが亡くなった後の出来事が描かれている。原題を直訳すると《ルシアの後》。父も娘も光(ルシア)を失った後、という意味になり上手い)


とかなんとか書いているとあらすじや内容について触れたくなるが、このページはあくまで私が映画を観て、感想や付随して考えた事などを書いていく余談のページ。

映画が気になる方は渋谷のツタヤへ。


映像を見るのはとても面白くて、画面やスクリーンの中に五感で感じられる要素が散りばめられている。

良質な作品ほど、目で見る物語ではなく、五感に触れるような映像が多い。


(さらに言うと、海外の良質な作品はなんでもそうだが、登場人物同士の距離感がちゃんと映し出されている。日本の作品は設定では恋人同士であっても距離があるように見えたりする)


自身の作品も五感に触れるよう心掛けよう。